見えない世界への手探り
前ページの「意識とは?―唯識思想と量子脳理論をめぐって」で触れたように、当方は人間・生命体の意識は肉体の死後も連続して存続するのではないかと考えています。ここから先は、学生時代から親しんできた仏教関連の本などを手がかりに、この考えを少しずつ整理していきます。
仏陀は「輪廻」を否定した?——よくある誤解
日本では「仏陀(釈迦)は輪廻を否定した」という説明を時々耳にします。しかし、原始仏典の範囲で見る限り、仏陀は死ねば無になるという見解を「断見」としてはっきり退けています。同時に、絶対不変の“私”が永遠に続くという見解も「常見」として否定しています。この二つの見解を退けたうえで、**業(カルマ)に基づく生の連続(輪廻)とそこからの解脱**が語られています——この部分は理解がむずかしいところで、当方も大学時代から長らく「考えてもよくわからない」と保留してきました。ただ、この何年かでようやく自分なりの整理がついてきました。
時代背景というバイアス
日本で上記の誤解が広まった背景として、東京大学・印度哲学科の宇井伯寿教授(のちに曹洞宗の宗門大学である駒沢大学の学長も務めた方)の影響も小さくなかったように思います。以下、知人のブログの記載を借ります。
**日本の近代仏教学の祖に、宇井伯寿という大先生がいらっしゃる。大正・昭和に活躍された先生で、中村元先生も門下にあるから、宇井先生の学説に反する論説はアカデミズムで禁忌とされ、それが未だに呪縛となっている。問題なのは、宇井先生が「仏陀は輪廻を説かなかった」とする点である。**
この要旨は、「仏陀は無我を説く。無我なら輪廻の主体は存在しない。ゆえに仏陀は輪廻転生を否定しており、輪廻を思わせる教説は道徳的実践を促すための方便にすぎない」という立場です。この見解を受け継ぐ僧侶も当時は少なくありませんでした。
振り返れば、当時は唯物論・物質主義の色が濃く、政治的にも左寄りの空気が目立っていました。当方より一回り以上年上の“団塊の世代”は大学在籍時に、学生運動を起こし、日本人拉致問題を引き起こした世界最悪の人権蹂躙国家を理想化し、旅客機をハイジャックして渡航――そんな事件まで起き、大学界隈には学生運動の余波が長く残っていたように思います。
そんな時勢の中、15年も前の安田講堂事件の尾を引き、当方の卒業時には卒業式がなく、学生課へ学生証を返却すれば、その引き換えで卒業証書が渡されるという手続きでした。このような時代背景が「仏陀は輪廻を否定していた」という摩訶おかしな受け止め方にもバイアスをかけていたのだと感じます。
原始仏典からの理解
宇井博士の教え子でありながら、仏教理解において大きく異なっていた中村元博士が書かれた原始仏典を、大学時代に読み始めました。そこで理解したのは、「業(カルマ)=行為」と「輪廻」が仏陀の教えの骨格であるということです。現世か来世かはさておき、自らの行為の結果は最終的に自分が受け取る――すなわち、善い業は善い結果(善因善果/善因楽果)に、悪い業は悪い結果(悪因悪果/悪因苦果)につながるという枠組みです。あくまで「我」が「行為」の結果を受け取る、ということです。
魚川祐司さんという東大・思想文化学科出身の仏教研究者の著作『仏教思想のゼロポイント――「悟り」とは何か』の中に、以下の記載があります。
**仏教に対するよくある誤解の一つとして、「悟り」とは「無我」に目覚めることなのだから、それを達成した人には「私」がなくなって、世界と一つになってしまうのだ、というものがある。**
では「無我」とは何か?原始仏典には“無我”という語が出てくる場面はほとんどなく、むしろ「これは私ではない、私のものではない」という言い回しが目立ちます。ここで、知人のブログの表現をもう一度借ります。
**「私の本質は、この心身ではない」と仏陀は説いていたと解釈してもよいかと思います。**
二つのものさし:「勝義諦」と「世俗諦」
一つ注意したいのが、この二つの区別です。以下、知人のブログからもう一つ。
**「勝義諦」とは、究極の真理や悟りの境地やら真理そのものを言葉にした場合を言います。それに対し、「世俗諦」とは、日常の範囲の表現で、いわば世俗的にものごとを表現する日常用語です。たとえば、ある覚者が、「私は生まれてもいないし死んでもいない」という場合は、勝義諦で話しています。でも、この人が、何かの用事で市役所へ行って、「ここに生年月日を書いてください」と言われて、「私は生まれてもいないし、死んでもいない」とは答えないでしょう(笑)。**
この区別は、イエス・キリストの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という言葉にも通じると思います。語り手が真理の次元と世俗の次元をきちんと切り分けていても、受け手側ではその二つが混線しやすい——そんな場面は少なくないと思います。
「私」の本質についてーー量子論からのヒント
前ページでも触れたとおり、近年は量子力学の視点から「意識」を説明しようとする試みがいくつか見られます。たとえば田坂広志さん、村松大輔さん。お二人とも量子力学の専門家ではありませんが、東大・工学部出身の理系の人です。田坂さんの『死は存在しないーー最先端量子科学が示す新たな仮説』では、大乗仏教の唯識思想や、ロジャー・ペンローズ博士の「量子脳理論」にも触れつつ、仮説を分かりやすく紹介しています。
当方が想定する「私の本質」は、一般的な言い方なら潜在意識あるいは無意識、唯識で言えば第八識=阿頼耶識(あらやしき)、チベット仏教・ゲルク派の語彙なら、普段は表に出て来ない「微細な意識」に近いのではないかという立場です。現時点ではあくまで仮説ですが、こうした枠組みで考えると、仏教と現代科学の間に接点があるようにも思います。
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